下校時刻の哲学的ゾンビ
https://omocoro.jp/kiji/64616/
この感想は、僕の中で以前から考えていたものがかなり出てきています。
不自然にかたくなに三つに分けられたコマは、
大朋の視界/現実のカメラ/龍野の視界ですね。
大朋の視界/現実のカメラ までは分かっていたのですが、人のレビューを見るまで龍野の視界という視点がありませんでした。凄いですね。
大朋の、「消えたい」とか「死にたい」っていう感覚が皮肉にも「意識が」最も強く出ている状態なのかもしれない、とか思いました。
私が消えた、自己意識が消えた、自我が消えた
それは俺にも分かりやすく言うと?
↓
感情が無くなったのではない
↓
行動力や能動性が無くなったのではない(近い)
↓
哲学が無くなったのかもしれない
↓
解けない補習から逃げたい、解けない問題から逃げたいという気持ち
というより、解けなかったから、人生において補習になってしまっている「何か」
そういった何かがあるなって思います。それはシビアになったりマンネリしたり死にたくなったり前向きに頑張ったり感動したり、そうした何かの時に浮上してきます。
その人のその時の哲学すべき…というか、哲学した方がよい事です。
そういう時に心当たりがあって、僕はよく下校時刻までただ過ごして帰るしかない状態にしたりとか
補習のプリントを投げ出して答えを写したりとかしていたからそう思います。
ざっと読み返せば分かるのですが、大朋は問題を解いていないです。解くのをやめました。
それは悪い事ではないです。ただ解くのをやめてこの何らかの問題に向き合い、考えたり、調べたりするのをやめただけです。
そして毒薬を食べる事で自我が完全に消えてしまって
また浮上してきた時に再びチャレンジするチャンスすらも無くなってしまいました。
哲学が浮上する事すら無くなってしまったのです。
哲学と言うから僕も掴みづらかったのですが、思春期に頭の中に浮かんでくる、すごく突き詰めて考えておいて、今行けるところまで行き着いたら
とりあえずこんな感じだな、と一旦セーブして置いておく何かです。
また何かしらで浮上してきたら
セーブした所の続きから進んでいって、また行き着いたらそのでセーブするやつですね。
彼女にはその、「あの時の何か」がもう二度と出てこなくなったんだと思って、悲しいとか寂しいと思います。
普通の事なのですが、僕は中学か高校で
「死にたい」みたいな気持ちが強く出たと思いました。
ドラマとか小説とかで主人公が死にたい死にたい言ってるのを見てたり、保健の教科書で思春期は精神が不安定になりますっていうのを見て、僕にはあり得ないでしょと思っていました。
というか、自分からは一番遠い感情だと感じていました。
でもその時は死にたいとしか表現できなかったですね。
めちゃくちゃ平凡で出尽くした答えなのですが、死にたいというのも本当でしたが、心の発達とともに未知の世界に出てきている緊張を身体が感じ取っていて、でも言葉を知らなかったり、上手く組み立てて対処出来なかったから、それを死にたい、投げ出したいと表現していたんだろうと思っています。
でもラストのコマはかなり僕にとっては救いがあって、大朋が「生きてて良かったー!」って言う所ですね。
生きていなければこの会話すらも無いわけじゃないですか?
大朋の自我が無くなってしまったのって、キャラメルを食べたから ではなくて、
自我を無くしたいと思って食べたから自我が無くなったんだと思います。
諦めるみたいな事ですね。
これをやったら諦めるという事だ、という行為があったとして、
それをやるか、やらないか?
自分で形ではっきり示してしまったんだと思います。
最後のページは、哲学をやめた人たちの会話なのかなと思いました。