自分の中の神観について

神ってハナシ

◦ 神ちガにおいての神
GODとかヤハウェとか万物の父とか創世主とか唯一神とか呼ばれる神みたいですね
神さまが〜というタイトルと、予告に猫又とかが描いてあったので八百万の神なのかなと思ったんですけど
そうじゃないっぽい

今回の植物は祝福によるものっぽい
パンから芽が出て来るのは『ドリフターズ』の黒王みたいな感じ
だから全く関連のないバグは出ないって感じかな
バッテンマスクっぽいのでGODの口が封じられてますね。これがバグの原因なのかなとます
「申」にバッテンがあるので口を塞がれている神ですね

自分は『やがて君になる』を読んでいて
もはや俺の一部になっているので「言っちゃダメなんだ」って思って
「は……?どうして言葉を発しちゃいけないんですか……?
もはや『やがて君になる』が世界に広く流布されているというのに……。
仲谷鳰先生が四年半かけて全8巻にわたって描き切ったというのに……

やがて君になるを読んだから我々人類は気持ちを言葉にする事や答え合わせすることの怖さや楽しさを学んだんじゃないんかよ……!?ドキドキするってやつだろうがッッ!!!!なんで!!!!!」ってなった 危なかった……(?)

逆に『やがて君になる』の初見も「世界にGOという名作が出版されてから久しいというのに…人類はまだこんなことをやっているのか…」って思ってたし 俺はそういう感じ

https://www.amazon.co.jp/ビジュアル図解-聖書と名画-中村明子/dp/4791623215/ref=asc_df_4791623215/?tag=jpgo-22&linkCode=df0&hvadid=295663748827&hvpos=&hvnetw=g&hvrand=6586325913046825692&hvpone=&hvptwo=&hvqmt=&hvdev=m&hvdvcmdl=&hvlocint=&hvlocphy=1009717&hvtargid=pla-718092038792&psc=1&th=1&psc=1

この本を読んで旧約聖書のイメージに少しさわったのですが
そのイメージだと僕は「GOD」あんまり好きじゃ無いですね……

基本的に後出しジャンケンで「私を畏れよ」とか「お前を試したのだ」って言ったり

「人類増えすぎたから一回リセットしよ。」言ってノアの大洪水で大量の人間を殺したりしてるので

極め付けは原罪で、「男は一生働く苦痛を得る^女は一生男に従い海の苦しみを味わうようになった」の文。

いや〜〜こんなんありえんよね

 

唯一好きになれそうGODキャラといえば、小説『カラフル』に出てくる「プラプラのボス」か。
それも「僕は『カラフル』に出てくる天使のプラプラが好きだ。そのプラプラのボスだから、まあ、信じるか」くらいの感覚でしかない
ていうか小説のカラフル読んだから↓の感覚が形成されているところがある
カラフルでは天使プラプラは出てくるけど神そのものは出てこないし助けてくれないから
「GODは頼りにできないから自分で魂のレベルを上げるしか無い。具体的には感性を上げることである。」という感覚が育ってる


◦ 自分の神観とか こういう時に神を感じる
神!!唯一神!!創造主!! とかはわかんなくて、
アテナ(知恵・芸術・戦略)
アルテミス(狩猟・純潔)
ポセイドン(海洋)
シヴァ(破壊・破邪)
とかそういう固有の神しかわかんない感じですね。
『〇〇の神』、というやつよ
具体的な何かをして強く信じる(祈りとか体感とか)


信じる事で加護とか守護とか祝福とかいうものを受ける


加護を受けて学習効率が上がったりする

だから、
かみちゃまかりん』の神化という概念とか『しゅごキャラ!』のキャラなりとか『グラップラー刃牙』の大地母神ガイアとか『ホーリーランド』のみんなが僕の中にいる感覚とか『ペルソナシリーズ』でペルソナ(神や精霊)を付け替えて得意なことを手に入れる感覚とかに親しんでいるので、ごく小さい神とか土着信仰みたいな感覚しか無いですね。

lovelessとか陰陽師とかもあるけど上手く使える感じがしない(美形なので)

例えば
とろける鉄工所』っていう漫画を読んでから
「溶接・ものづくり」に対する興味が芽生えて
それから駅のホームや空港や金物などを見る目が明らかに変わって、『とろ鉄』が自分の中に宿っているのを感じるんですね

こういうのを感じられることを「神を感じる」とか呼んでますね。
この場合は『とろける鉄工所』が「物作り・労働の神」って感じでしょうか。

あえていうならGODはスペルの神なのかな?という感じ
言葉によって世界の理にアクセスして何かを起こす感じ?
まもって守護月天』のルーアンとかがそれに近いか?
でも旧約聖書のGODの場合はうまく制御できなさそうなんだよな
自分の言葉に振り回されている感じ
だから口を塞いでいるのでしょうかね?とか思った

あと言葉は思考の元になっているから、そういう意味で全ての頂点なのかなと思う(今まで挙げたあらゆる神も言葉によって認識されているので)

 

そういう感じやな!

神さまがまちガえる一話感想

とりあえずメモ全部や

ツイッターにはもう少しまとめ直して出したいの〜

 

神さまがまちガえる1話
本誌表紙
上着から鎖骨が見えているので寒くないのか?と思ってしまう
タートルネック着ろ!!

かさねさんデッッッカ
紺の頭くらいあるやん ないよ

時期が正月っぽく見える
寒そう

実家みたいな家→帰省→正月

玄関の真上に後光みたいなデザイン→正月飾り
だからでしょうおそらく

だけど正月飾りが無い そこに無いことで神の存在を示唆している感じ?
(この世界には神という概念だけがなくて、それで逆に神の存在の意味を読者に教える話なのかもしれない)

最初のカラー、たしかに美麗やなって思った
バグで出てるデカイ木、世界樹っぽい

目覚まし時計が日差しの方向にあるのは合理的っすね……音聞いて時計の方見たら陽の光が入って目が醒めるってわけ

キャラの髪がトゲトゲしていて藤崎竜みが増している

かさねさんさ…
「知ってるヨォ〜〜〜〜……!これが"かわいい"ってやつだろ!?やがて君になるを読んだからな……」ってなった
「今日もバグってるね」って言ってるかさねさんの方がバグってるぽい表情してると感じる
「ああ……この人はもう壊れてしまったんだ」みたいな絶望するシーンで描かれがちな顔じゃない?そうでもない?
仲谷先生の描く表情は不穏な感じがビンビンする 多分瞳が小さいからだと思う

紺→かさねは呼び捨てなのか
やっぱ仲谷先生はかわいいやつに引っ張られるバディが好きなんだろうなと思う

そして神はGOD、BRESSという事で聖書の唯一神ヤハウェみたいですね……
申の部分が✖️なので「言っちゃダメなんだ」って事?
どういう事だぁ〜〜……!!そんなんはもう…終わったんじゃ……ないんですか!?(唐突なキレ)
俺は…やがて君になるを読んでいるからな……💢
タイトルにもなっている「神さま」
英題に「GOD」ってはっきり出ているから「かのGOD」なのかー
旧約聖書のことを少し調べたのですが
僕は神聖八文字のことあまり好きではないですね(もちろん神はそのような人すらも包み込んでくださると思いますが)
でもその当時言った言葉が全部記録取られてガチで大勢の人間に信じられてるのもかわいそう デジタルトゥーやん!

バグは「ん?あれ??なんかちょっとおかしい」みたいな感じですね。古い神社にはデッケェ木があって見える事自体は普通にあるので
ただそれがデカいという

紺くんの部屋番号が「4」なのに気づいて「不穏やなあ」って思った 仲谷先生を恐れすぎだろ
綿矢紺くんの部屋番号は4。死!! 仲谷先生の絵柄には死を感じやすいので不安になるからやめてほしい
全体的に白い画面が寒そう

ジャングルになっている家や街を見て、「植物を見分けることができたら楽しいだろうなっ」て思う ものの名前に詳しい人といると楽しいじゃないですか?
街歩いてるだけで楽しそう

円子さん なるほどね!!!!!!!!!
お前の質感わかりすぎてわかりすぎるが故にまだ夢見れないわ……(?)

この葉っぱがいっぱい生えてジャングルみたいな状況、葉っぱに詳しい人にとっては逆に利用できてホームタウンみたいな感じになったりしないのかな?

恒成くん 予告を見て「星っぽいな〜 SFだし星新一くんなのかな〜」とか思ってたら名前コウセイ(恒星)くんなのか あたりじゃん! 眼科セーター着てるってことは観察眼はなさそう
エリアの騎士の中塚公太くんとか好きだもんな
仲良くなれそう(俺と)

新聞を分け合うというのはかなり家族感ありますね

伊予田さん 「お前……!!!!」って思って
これもう「女子が好きなやつの塊」やんって思って
これ嫌いな女子いないやろって思って、ニチャて笑ってしまいましたね
伊予田さんに笑ってしまったというよりも「わかる」って思う自分が可笑しく感じるみたいな

姉の影響で少女漫画読んでいたのですが
少女漫画にはこういったキャラが結構出てくるし人気あるっぽいので
それでなんとなくのイメージが集まって、自分の中で「女子が好きなやつ」になっているみたいですね
ハチミツとクローバーの森田さんとか
付き合ってあげてもいいかなの完くんとか

逆に恒成くんは男子に好かれるやつっぽい

木に登ってるかさねさん見たときに「ナンダオマエ……!!」ってなってしまって
初見で「ぜってえ手伝わねえ!!自分で降りろよ降りられるだろ……!!」って思ってしまって

自分は仲谷先生の描く決めゴマとか主人公を警戒してしまっていて
やっぱかさねさんの事もめっちゃ警戒してしまいますね
戦闘モードになってしまうというか
(あえてそういう描き方をしてると思う)
ドキドキせずに安全に生きたいのならそれで正解なので、別に間違ってはいないですね

「そういうことになった」のコマばり好き セリフ全部ひらがななのも含めて好き
やが君読んでたら「流されやすそう」ってセリフにテンション上がってしまうよね
「知ってるよ……流されてるけどその実変わりづらいやつなんだろ!?!?!紺色は染まりづらい色なんだろ!?!?!?!?」ってなる

神、ジャングル、サバイバル、生き延びそう、なんでもあり……などの言葉が出るたびにウオーーって思っていて
キャラクターとしてグラップラー刃牙幼年編の「自衛隊のレンジャー部隊」が好きみたいですね
なんでもありのグラップラー刃牙でサバイバル訓練をしにジャングルに来ているレンジャー部隊
その指揮官を務める男とは
かなり影響を受けているっていうか 実感として取り入れている感じですね
だから自分にとってかなり大きい神ですね

バグの例の話の時に「一日の時間が27時間になった」ことを「知覚できるんだ」って思いました
必ず人類が知覚できる事においてバグが起きるのか
それともバグは起こってるけど知覚できていないのか
わからない……
という事はバグは一つの神によって起きてるのか
多数の神によって同時多発的に起こっていたら偶然切れるタイミングが来るので
それか神はたくさんいるけども天界が統一されていて一回に起きるバグは一個とかか

神が何がしかの要因で口を塞がれていてことば(BLESS)をコントロール出来なくなったからバグが起こってるのかな
「なんでもあり」

木の下をくぐるシーン
「紺は頑張ってなんとか通る」とか言われたら自分だったらふざけてしまうだろうなって思った
分析されて言われるの嫌だし、見られていることを意識したら誰だって多少行動が変わってくるだろうなって思う
見栄張ったり萎縮したり普通と思われる方法に切り替えたり

だから紺は観察対象としての才能があるのかな
人に見られていても通常のままでいられるっていう才能
『人前に立つ事によって自分にとって大切なものを知らず知らずのうちに削られてしまわない才能』ってやつよ
朝井リョウ先生の「スター」て作品があってぇ……

商店街
自分はやっぱアゴがしっかりしてたり丸い顔が安心感あって好きやなと確認した
アゴのラインがしっかりしてるキャラ見るたびに「ありがとうございます、いただきやす……」って手合わせてる気持ちで見てる
自分は今外国に来たくて来てるんやけどそこに餃子の王将あったら入りたいやん?日本語の看板見たら安心するやん?いらっしゃいませって言われたらそら安心するよって思って食ってる、目から食ってるつもりでアゴの太いおじさんやおばさんを見てる

姫崎さんとこのお嬢ちゃんということは両親が近くにいる 大家で大学授業やってるけど近くに親がいる!一体どんな親なんだろ……

「わからないものをわかろうとすることを止めてしまったらおしまいさ」ってセリフ
そうだよね〜〜〜〜〜〜って思う 我々は……やがて君になるを読んだからな……

記憶がなくて自分のことがわからないんじゃない?

「あのツタをこっちに植え替えられないかな 勝手に伸びていい感じになりそう」っていうのは紺のことか?ってなる
なるほど!かさねさんは植え替えてもいいし場所にこだわらない

「うれしい?」と気持ちのことを聞くかさねさんに対して「おいしいね?」と返す紺くん
味覚のことを聞いてんじゃねえ!!!気持ちを答えろ紺!!!!!!(我々は……やがて君になるを……)
クラッカー鳴らしていくみんなかわいいね
アスパラを食べるのは「わからないものをわかろうとする」って事か

すげ〜疲れた……仲谷先生の作品を読むときはウオ!!!!ってなってめちゃくちゃ集中してしまいます
危険だけど読まないといけないような、そういう変な気持ちになるんですよね 多分わかると思いますが

福田隆浩「ふたり」

めちゃくちゃ泣いてしまいました。

 

内気な少年、本が好き、特定の作家が好き、人の事を想像して(読んで)ばっか

俺やん!!!!!

「読む」という行為について、「ああ、こういうことだよなあ」と深く納得しました。

手話、検索、本を読んでメモを取る、違う視点を持った人間によって解釈(読んだ事)を混ぜ合うなどは、かなり自分にとって響くものでした。

それらは「人と通じようとする行為」だからですね。

もっと言うと、自分と通じなくて当たり前の他者と通じ合うために、という視点を持って真剣に通じる方法を考えるという事がもうすでに尊い行為だと思いがちみたいですね。危険なことでもありますが。

 

図書館、音楽室、喫茶店、高速バスの中など魅力的なシーンが沢山ありました。

准くんがブチギレて松尾くんを殴りまく「れた」のは良かったですね。結構リアルだと思いました。

 

「二人は付き合ってるのか?」について

「ニチャ…」してしまいましたね

やがて君になる』という作品で考えた事があるからです

 

ふたりは好きな作家について探求して答えを出そうとしている

だが…互いの問題には向き合う事が出来ない

これが終わったらどうなるのか?

私達はどうしたいのか?

これは付き合っている事になるのか?

 

聞けば壊れてしまうかもという雰囲気も感じられて良かったです。

やっている事が遅々として進まないという焦りも。

准くんは図書館の帰りに、思いがけず父の別の姿を見てしまいます。

しかし、何かについて探求する、少なくとも外に出るとはそういう事なんだと。

あとボディランゲージに

セガ新作RPGのCMを見て思ったこと、考えたこと

https://youtu.be/1rNnGTkh_pA

一週間前の9月17日、SEGA新作RPGトレーラーとして動画が公開された。

これを見て「あんま好きではないな」って思ったので文字にしました。基本的に自分の事に帰結するように書きたいと思います

 

・最初からCGが微妙で不安を感じた。紙は羊皮紙?のっぺりしていてテクスチャ貼りました感がある。羽ペンも陰影が少なくて少し安っぽい気がする。紙へのインクの染み込みもなかった。

初見では言葉にはなっていなかったけど、とにかくそういったこまごましたものが、もやもやした「不安」として頭にわいていました。

 

→普段の自分は「グラフィックだけでゲームを判断してはいけない」とか考えてるくせに何だかんだグラフィックの出来を気にしていますね。

 

→まあ特に美麗でなくても良いけれど、グラフィックが「悪い」、平均以下ということはそれだけお金をかけられてないということで、お金をかけていないものは駄作になりやすいから不安を感じること自体はしょうがないと考えます。

大事なのは不安を感じていてもそこだけで判断してはいけないという心構えだ、と思ってゲームを見ています。

 

・「ロールプレイングゲームとは、なにか。」「それは、未知なる世界を進む冒険の旅。」

→うん。

 

・「しかし、今やストーリーは一本道」

→ここでかなり「?????????」となりました。同じような人も多いと思います。

今やRPGは「ストーリー分岐が多い」「ストーリーはあなた次第!」がかなり多くないですか?

昔のRPGの方がストーリーが一本道のRPGが多くない?容量や技術の面で一本道にならざるをえなかったよね?それが今やたくさん分岐するRPGがたくさん花開いてるよね???昔も昔でマルチエンディングのRPGがある事を知らないのか??とか。自分の中のRPG観とは真逆なキャッチコピーだったので驚きました。

 

「未知のはずが、引き返してやり直せる旅路」

→引き返してやり直せることの何が悪いのか。僕は引き返してやり直すことにかなりRPGの醍醐味を感じている。

RPGをやっていれば、新しい敵に出会って「やべっ」ってなって急いで戻った経験はありますよね。僕はそこでいろんな事を考えて覚えました。

やっぱ自分の今のレベルならこれくらいが適正レベルだな。そういえばこの街で売ってる武器がまだ買えてなかったな、買ったらめっちゃ楽になるじゃん!敵倒すの楽になってお金貯めるのも早くなった!あと何回敵倒せばレベル上がるかな?一回の戦闘で経験値がこれくらい貯まって、レベルアップに必要な経験値がこれだから…。割り算を覚える必要があるな。せっかくだし全員の装備買お!とか。

「引き返してやり直せる旅路」は楽しくないですか?

そして再び新しい街を目指して進む時、「既知の道を再び進む」という「新しい体験」を得ます。

視点が変わっているのです。成長の実感と呼んでもいいかもしれません。

 

大人になってからはだいぶ成長していて、「中盤に差し掛かるからいきなり敵が強くなるかもしれない。レベル上げをしていこう」とか思うようになってレベル上げをするようになっているわけです。

宿屋によく泊まり、「宿屋の値段って費用に対して効果が高すぎないか?」ということに気づき、「全力で魔法やスキルを使ってすぐに宿屋を繰り返した方が早いし強くなる」と考え、「新しい敵は危険だからまず全力で倒してみてHPを予測し、危険度を割り出した方がいい」とかに行き着いたりもしました。

そして効率の良いやり方を見つけた自分に自信を持ったり、計算通りにいったことに満足したり、それでもとつぜん強敵にやられて高くなった鼻っ柱を折られたりするわけです。

 

話が膨らみすぎましたが…。

 

僕はそこにプレイヤーの個性が出ると思っているし、そんな自分を感じるのが楽しいと思っているんですね。そこへ行くとやはりSEGAは挑戦的に見えますね。ゲームセンターの筐体を多く作っているし、一期一会観が強いのだろうか…?

 

 

・「決められたエンディング。」「だが、本当にそれでいいのか?」

→まあ、そう。でも、シナリオライターはストーリーに決着をつけるというのもあるな。結論を出すという。

「協力」がテーマの作品なら、「協力の良さエピソードを物語上にたくさん配置して、人々を支配しようとする魔王を倒し平和が訪れる」とか。そうして一つの結論を出す事も良いことだと思っています。

 

・「コンピューターゲームが生まれる前、最初のロールプレングゲームは紙とペンで出来ていた。」

→ここから、直線しか描いていなかった羽ペンの線が波打ち始め、背景や人物、物語を描き始めます。でも僕はここからかなり気持ち悪い動きをしていると感じました。ペンが機械がやるように正確に動き始めるからです。

 

僕は趣味で少し絵を描くのですが、このプロモーションビデオの絵の描き方は「答えがわかっている人が描くやり方」です。

「ある程度慣れた人が、ある程度把握したものを描く」やり方です。

 

「正解がもう頭の中でわかっていて、それを脳内から現実におこすだけ」の人がやる描きかたです。迷い線がない。描くのが遅い人があえてその癖を克服するためにボールペンやつけペンでいきなり描くことがありますが、それにしてもこの絵は失敗がない。

 

YOUTUBEのショート動画とかTikTokでもたまに目にしますね。サヴァン症候群の方は意識せずこのような正確な描き方をしますが、このCMがそれを表現しているとは思えなかったです。)

 

アナログ特有の紙のにじみもない。インクの補充に手を戻すこともない。

不自然なんですね。言っている事と真逆の事を、今目の前で高速で展開していると感じます。

このCGでも再現しているように、羽ペンは黒い部分…インクを溜め込む部分が少ないです。もっと不便なものなんです。手元も隠れる。インク落としたりはしない。インクだまりもない。そしてタッチ、線の強弱がない。

 

コンピューターが生まれる前の紙とペンの話をしながら、この羽ペンがむしろコンピューターのような正確な動きをしているんですね。

 

描きだす手順も変ですね。全体像を描いてからではなくて岩肌の影のディティールこだわったり。人の後ろ姿でも体の外周をなぞるような手順で描いたり、影と輪郭を一気に描いていくとか。

羽ペンの向きが明らかに右手で持つ角度ではなくなっていたり。紙を回転させているのか?

工場で製品に刻印を焼き付けるレーザーのロボットや、3Dプリンターのあの手順みたいに感じますね。これは人によるかもしれませんが。

 

・「演じるのもストーリーも自分次第」

→そうでもあるし、そうでない部分もある

 

僕はTRPGをやったことが2回だけあります。プレイヤーは基本的にGMゲームマスター)が作ったシナリオを壊さない範囲でロールプレイ(役割を演じること)をする必要があります。大道ではGMが用意したシナリオに沿わなければなりません。だから、演じるのは自分次第ですが、制限がかかっているわけです。「いきなり村長を襲って首を切る!」なんてのは厳しいわけです。(やってもいい卓もあると思いますが)

 

TRPGではゲームマスターという人がストーリーと敵キャラと街の人の会話と…たくさんのことを用意しています。

紙とペンのアールピージーにどんな幻想を描いているのか分かりませんがストーリーは実際には自分次第ではありません。GMしだいでかなり制限がかかっていると言って良いでしょう。話が逸れすぎたら元の大筋に戻るよう演技するのです。

しかし、大筋に沿った道の中でプレイヤーがどうどう話したか、どう戦ったか、また振ったサイコロの目という偶然が出て、それらが混ざったものが、一度きりの体験だとは思います。

毎回のセッションの内容に違いが出てきますね。そして、「同じストーリーをやったはずなのに、こいつをプレイヤーで入れたから今回はスリリングになった」など。

 

大きな一本道ではありますが、そこにはプレイヤーによって微妙な違いが必ず出ると思います。そこはTRPGでもコンピューターのRPGでも同じではありませんか?プレイングです。

 

「物語は読みものではなく、一度きりの体験」

→今まさに小説などの読みものにハマっているので、かなり違うと思いました。

僕の中で物語といえば小説とアニメです。

先ほどの引き返してレベル上げの体験のように、引き返して読めるものです。何度でも同じ内容で、何度でも同じセリフをやってくれます。しかし、それら全てが、一度きりの体験です。だって、成長しているんだから。いや、成長していなくても、傷心で読むのか、部屋の大掃除をしていて懐かしみながら読むのか、テスト前日に現実逃避に読むのかで全く違った体験になりますね。

 

ちなみに「物語」の意味とは「物語ること、その内容。話。古くから語り伝えられた話」だから、「冒険は読み物ではなく、一度きりの体験」なら分かります。どちらかというと、冒険と物語は対になるものですね。冒険が誰かによって語られたり描かれたりして残された時、物語になります。冒険が現場なら、物語はことが終わった後で人によってなされる語りですから、「物語は、読みものではなく一度きりの体験」だと、ちょっと意味が分からなくなるんですね。

アミューズメントステーションSEGAをやってるSEGAだからこそ書けるキャッチコピーですね。

 

・「そこには、興奮と自由があった。」

→うん。(そこ、っていうのはコンピューターが生まれる前の紙とペンのRPGね)

 

・「取り戻そう。真のロールプレイングゲームを。」「スマートフォンで。」

ここでは紙とペンのロールプレイングゲームみたいな興奮と自由を味わえるものを真のロールプレイングゲームとしているようですね。そして取り戻すとは、自分が持っていたものを一度無くし、再び手にすることです。

この書き手はその昔真のロールプレイングを手にしていたけども、他のメーカーが作るゲームが一本道ばかりだから今やRPGは一本道。(そのあいだ自分は何してたの?作れよ)

だから取り戻そう。真のRPGを。という事みたいですね。

真のロールプレイングゲームとは

(未知なる世界を進む冒険の旅+一本道ではない+引き返してやり直すことはできない+エンディングは決められていない+興奮と自由がある+読みものではなく一度きりの体験+取り戻すもの+物語を描く選択は全てプレイヤーに委ねられる+真のRPGを知る)

としているようですね。よほどテーブルトークRPGに精通しているんでしょうか?

浅いイメージを掴んできただけだと僕は思います。

 

ちなみにこのゲームが一人プレイ用のゲームで、選択が全てプレイヤーに委ねられているのだとしたら、かなりストーリーの未知さは狭くなると思いますね。TRPGの自由と興奮はその参加者どうしのやり取り、セッションによって生み出されるところが大きいからです。

スマートフォンゲームというGMとプレイヤー1:1という状況だと減りそうなものですがそれは大丈夫なんですかね…?

プレイヤーが複数のセッションだと意見交換や多数決で物事が決まったりします。自分が意思決定に関われなかったりするわけですよ。

でもこのゲームではプレイヤーはおそらく一人で、しかも重要キャラがどうなるかの重要な選択肢に全部関わらせてくれるというのです。

これは…ある種自分ではどうにもならない要素、セッションや関係の要素が少なくなりますね。他者がいることによって起こるあの爆発力がないわけです。

そしてCMのナレーションもまた、答えが決まっている語りでしかありません。

相手のセリフを受けて変化する会話、セッションではないわけです。

 

ロールプレイングゲームとは、なにか。」「それは、未知なる世界を進む冒険の旅。」

「しかし、今やストーリーは一本道。」

「未知のはずが、引き返してやり直せる旅路。」

「決められたエンディング。」「だが、本当にそれでいいのか?」

コンピューターゲームが生まれる前、最初のロールプレングゲームは紙とペンで出来ていた。」

「演じるのもストーリーも自分次第。」

「プレイヤーひとりひとりが世界線を自由に描けた」

「物語は読みものではなく、一度きりの体験」

「そこには、興奮と自由があった。」「取り戻そう。真のロールプレイングゲームを。」「スマートフォンで。」

「あなたはきっと、真のRPGを知る」

 

 

 

長々と書いたが、僕はこのPVのナレーションは他作品に対して持つRPG観、TRPGに対して持つTRPG観があまりにも的外れなように思った。明らかに真のRPGを求める層に対して失礼なキャッチコピーだからだ。

 

ではこの文章は何なのか?と少し考えた。マーケティングなど考えられていない、SEGAのクリエイターのポエムなのではないか?

 

・「今やストーリーは一本道」とは何か?どこから生まれた言葉なのか?

時勢?

特にあっていないと思う。情報化や国際化で選択肢は多くなった。むしろ選択肢に悩む時代だと思う。もしくは、一見選択肢が多く、自己表現も自由かのように感じてしまうけれども自分は実際はそうなっていない(選択肢は多くなく、発信することも特にない)というギャップに悩む時代。(今はこれが多いかもしれませんんね)

 

・コロナ禍?

「今やストーリーは一本道」か?特に合ってない。「冒険が求められていない。」とか「冒険の場が無い。」とかなら分かる。

 

・このキャッチフレーズを書いた人のことではないのか?

RPG(仕事)とはなにか。」

「それは、(かつて新入社員時代の自分にとっては)未知なる世界を進む冒険の旅。しかし、今や(高い地位にあり冒険的な企画とは無縁で)ストーリーは一本道」。

 

スマホゲームに限定してみて

「それ(スマホ向けゲーム開発事業)は、未知なる世界を進む冒険の旅。しかし、今やストーリーは一本道(課金してもらって稼ぐというプランしかない。そのシステムも固まってきた)。

 

スマホRPGに対しては分かりませんが、そちらにも前述のプレイングの体験は残っていると思いますので、外します。

文學界三月号 感想

文学界三月号を読みました。表紙がセクシげな青年ですね。

読んだと言っても、dj松永さんのエッセイ「ミックステープ」と、國分功一郎若林正恭の対談だけです。あと、島本理生(りお?)さんの「私の体を生きる」です。

 

ミックステープは、djとして師匠を持って鍛錬を重ねる日々と、初の大会の様子がまとめられていました。スローペースで密な文章でした。自伝としてほとんど編集せずに出せるようにしてあるのかなと思います。

 

國分功一郎さんと若林正恭さんの対談「真犯人を探して生きている」は、若林さんの自伝エッセイを読んでいたこともあって、若林さんのエピソードを知っていたので、さらに国分さんからどんな返事があるかが入ってきやすかったです。

島本理生さんの「私の体を生きる」はけっこうハードな実体験の話で、幼少期のトラウマ、暴力を受けたこと、容姿、人を見分ける癖がついたこと、人を強く責めたりした過去など・・・

「何もかも身を守るために始めたことが終わって、今、私は、私とあなたというものを,考え直している。」

この言葉は好きですね。

 

最近、読もうかなと思っているジャンルの本があって、それがフェミニズムです。

ツイッターでよく目にするにしては自分の中で答えがはっきりしていない分野です。

社会の半分は女性で、その半分の人に関わってくるものをじぶんは把握していません。まだももうとした煙の中にいる何かです。

だから、

また、ツイッターで見かける少々過激なツイートに対して、モヤモヤしたままで終わらずに

「それはそう」それは違う」などの判断を自分でしっかり付けれるようになることで、ストレスを減らせれるんじゃないかなという期待を持っています。

 

下校時刻の哲学的ゾンビ

https://omocoro.jp/kiji/64616/

この感想は、僕の中で以前から考えていたものがかなり出てきています。

不自然にかたくなに三つに分けられたコマは、

大朋の視界/現実のカメラ/龍野の視界ですね。

大朋の視界/現実のカメラ までは分かっていたのですが、人のレビューを見るまで龍野の視界という視点がありませんでした。凄いですね。

大朋の、「消えたい」とか「死にたい」っていう感覚が皮肉にも「意識が」最も強く出ている状態なのかもしれない、とか思いました。

 

私が消えた、自己意識が消えた、自我が消えた

それは俺にも分かりやすく言うと?

感情が無くなったのではない

行動力や能動性が無くなったのではない(近い)

哲学が無くなったのかもしれない

解けない補習から逃げたい、解けない問題から逃げたいという気持ち

というより、解けなかったから、人生において補習になってしまっている「何か」

 

そういった何かがあるなって思います。それはシビアになったりマンネリしたり死にたくなったり前向きに頑張ったり感動したり、そうした何かの時に浮上してきます。

その人のその時の哲学すべき…というか、哲学した方がよい事です。

そういう時に心当たりがあって、僕はよく下校時刻までただ過ごして帰るしかない状態にしたりとか

補習のプリントを投げ出して答えを写したりとかしていたからそう思います。

ざっと読み返せば分かるのですが、大朋は問題を解いていないです。解くのをやめました。

それは悪い事ではないです。ただ解くのをやめてこの何らかの問題に向き合い、考えたり、調べたりするのをやめただけです。

そして毒薬を食べる事で自我が完全に消えてしまって

また浮上してきた時に再びチャレンジするチャンスすらも無くなってしまいました。

哲学が浮上する事すら無くなってしまったのです。

哲学と言うから僕も掴みづらかったのですが、思春期に頭の中に浮かんでくる、すごく突き詰めて考えておいて、今行けるところまで行き着いたら

とりあえずこんな感じだな、と一旦セーブして置いておく何かです。

また何かしらで浮上してきたら

セーブした所の続きから進んでいって、また行き着いたらそのでセーブするやつですね。

 

彼女にはその、「あの時の何か」がもう二度と出てこなくなったんだと思って、悲しいとか寂しいと思います。

 

 

普通の事なのですが、僕は中学か高校で

「死にたい」みたいな気持ちが強く出たと思いました。

ドラマとか小説とかで主人公が死にたい死にたい言ってるのを見てたり、保健の教科書で思春期は精神が不安定になりますっていうのを見て、僕にはあり得ないでしょと思っていました。

というか、自分からは一番遠い感情だと感じていました。

でもその時は死にたいとしか表現できなかったですね。

めちゃくちゃ平凡で出尽くした答えなのですが、死にたいというのも本当でしたが、心の発達とともに未知の世界に出てきている緊張を身体が感じ取っていて、でも言葉を知らなかったり、上手く組み立てて対処出来なかったから、それを死にたい、投げ出したいと表現していたんだろうと思っています。

 

でもラストのコマはかなり僕にとっては救いがあって、大朋が「生きてて良かったー!」って言う所ですね。

生きていなければこの会話すらも無いわけじゃないですか?

 

大朋の自我が無くなってしまったのって、キャラメルを食べたから ではなくて、

自我を無くしたいと思って食べたから自我が無くなったんだと思います。

諦めるみたいな事ですね。

これをやったら諦めるという事だ、という行為があったとして、

それをやるか、やらないか?

自分で形ではっきり示してしまったんだと思います。

最後のページは、哲学をやめた人たちの会話なのかなと思いました。