セガ新作RPGのCMを見て思ったこと、考えたこと

https://youtu.be/1rNnGTkh_pA

一週間前の9月17日、SEGA新作RPGトレーラーとして動画が公開された。

これを見て「あんま好きではないな」って思ったので文字にしました。基本的に自分の事に帰結するように書きたいと思います

 

・最初からCGが微妙で不安を感じた。紙は羊皮紙?のっぺりしていてテクスチャ貼りました感がある。羽ペンも陰影が少なくて少し安っぽい気がする。紙へのインクの染み込みもなかった。

初見では言葉にはなっていなかったけど、とにかくそういったこまごましたものが、もやもやした「不安」として頭にわいていました。

 

→普段の自分は「グラフィックだけでゲームを判断してはいけない」とか考えてるくせに何だかんだグラフィックの出来を気にしていますね。

 

→まあ特に美麗でなくても良いけれど、グラフィックが「悪い」、平均以下ということはそれだけお金をかけられてないということで、お金をかけていないものは駄作になりやすいから不安を感じること自体はしょうがないと考えます。

大事なのは不安を感じていてもそこだけで判断してはいけないという心構えだ、と思ってゲームを見ています。

 

・「ロールプレイングゲームとは、なにか。」「それは、未知なる世界を進む冒険の旅。」

→うん。

 

・「しかし、今やストーリーは一本道」

→ここでかなり「?????????」となりました。同じような人も多いと思います。

今やRPGは「ストーリー分岐が多い」「ストーリーはあなた次第!」がかなり多くないですか?

昔のRPGの方がストーリーが一本道のRPGが多くない?容量や技術の面で一本道にならざるをえなかったよね?それが今やたくさん分岐するRPGがたくさん花開いてるよね???昔も昔でマルチエンディングのRPGがある事を知らないのか??とか。自分の中のRPG観とは真逆なキャッチコピーだったので驚きました。

 

「未知のはずが、引き返してやり直せる旅路」

→引き返してやり直せることの何が悪いのか。僕は引き返してやり直すことにかなりRPGの醍醐味を感じている。

RPGをやっていれば、新しい敵に出会って「やべっ」ってなって急いで戻った経験はありますよね。僕はそこでいろんな事を考えて覚えました。

やっぱ自分の今のレベルならこれくらいが適正レベルだな。そういえばこの街で売ってる武器がまだ買えてなかったな、買ったらめっちゃ楽になるじゃん!敵倒すの楽になってお金貯めるのも早くなった!あと何回敵倒せばレベル上がるかな?一回の戦闘で経験値がこれくらい貯まって、レベルアップに必要な経験値がこれだから…。割り算を覚える必要があるな。せっかくだし全員の装備買お!とか。

「引き返してやり直せる旅路」は楽しくないですか?

そして再び新しい街を目指して進む時、「既知の道を再び進む」という「新しい体験」を得ます。

視点が変わっているのです。成長の実感と呼んでもいいかもしれません。

 

大人になってからはだいぶ成長していて、「中盤に差し掛かるからいきなり敵が強くなるかもしれない。レベル上げをしていこう」とか思うようになってレベル上げをするようになっているわけです。

宿屋によく泊まり、「宿屋の値段って費用に対して効果が高すぎないか?」ということに気づき、「全力で魔法やスキルを使ってすぐに宿屋を繰り返した方が早いし強くなる」と考え、「新しい敵は危険だからまず全力で倒してみてHPを予測し、危険度を割り出した方がいい」とかに行き着いたりもしました。

そして効率の良いやり方を見つけた自分に自信を持ったり、計算通りにいったことに満足したり、それでもとつぜん強敵にやられて高くなった鼻っ柱を折られたりするわけです。

 

話が膨らみすぎましたが…。

 

僕はそこにプレイヤーの個性が出ると思っているし、そんな自分を感じるのが楽しいと思っているんですね。そこへ行くとやはりSEGAは挑戦的に見えますね。ゲームセンターの筐体を多く作っているし、一期一会観が強いのだろうか…?

 

 

・「決められたエンディング。」「だが、本当にそれでいいのか?」

→まあ、そう。でも、シナリオライターはストーリーに決着をつけるというのもあるな。結論を出すという。

「協力」がテーマの作品なら、「協力の良さエピソードを物語上にたくさん配置して、人々を支配しようとする魔王を倒し平和が訪れる」とか。そうして一つの結論を出す事も良いことだと思っています。

 

・「コンピューターゲームが生まれる前、最初のロールプレングゲームは紙とペンで出来ていた。」

→ここから、直線しか描いていなかった羽ペンの線が波打ち始め、背景や人物、物語を描き始めます。でも僕はここからかなり気持ち悪い動きをしていると感じました。ペンが機械がやるように正確に動き始めるからです。

 

僕は趣味で少し絵を描くのですが、このプロモーションビデオの絵の描き方は「答えがわかっている人が描くやり方」です。

「ある程度慣れた人が、ある程度把握したものを描く」やり方です。

 

「正解がもう頭の中でわかっていて、それを脳内から現実におこすだけ」の人がやる描きかたです。迷い線がない。描くのが遅い人があえてその癖を克服するためにボールペンやつけペンでいきなり描くことがありますが、それにしてもこの絵は失敗がない。

 

YOUTUBEのショート動画とかTikTokでもたまに目にしますね。サヴァン症候群の方は意識せずこのような正確な描き方をしますが、このCMがそれを表現しているとは思えなかったです。)

 

アナログ特有の紙のにじみもない。インクの補充に手を戻すこともない。

不自然なんですね。言っている事と真逆の事を、今目の前で高速で展開していると感じます。

このCGでも再現しているように、羽ペンは黒い部分…インクを溜め込む部分が少ないです。もっと不便なものなんです。手元も隠れる。インク落としたりはしない。インクだまりもない。そしてタッチ、線の強弱がない。

 

コンピューターが生まれる前の紙とペンの話をしながら、この羽ペンがむしろコンピューターのような正確な動きをしているんですね。

 

描きだす手順も変ですね。全体像を描いてからではなくて岩肌の影のディティールこだわったり。人の後ろ姿でも体の外周をなぞるような手順で描いたり、影と輪郭を一気に描いていくとか。

羽ペンの向きが明らかに右手で持つ角度ではなくなっていたり。紙を回転させているのか?

工場で製品に刻印を焼き付けるレーザーのロボットや、3Dプリンターのあの手順みたいに感じますね。これは人によるかもしれませんが。

 

・「演じるのもストーリーも自分次第」

→そうでもあるし、そうでない部分もある

 

僕はTRPGをやったことが2回だけあります。プレイヤーは基本的にGMゲームマスター)が作ったシナリオを壊さない範囲でロールプレイ(役割を演じること)をする必要があります。大道ではGMが用意したシナリオに沿わなければなりません。だから、演じるのは自分次第ですが、制限がかかっているわけです。「いきなり村長を襲って首を切る!」なんてのは厳しいわけです。(やってもいい卓もあると思いますが)

 

TRPGではゲームマスターという人がストーリーと敵キャラと街の人の会話と…たくさんのことを用意しています。

紙とペンのアールピージーにどんな幻想を描いているのか分かりませんがストーリーは実際には自分次第ではありません。GMしだいでかなり制限がかかっていると言って良いでしょう。話が逸れすぎたら元の大筋に戻るよう演技するのです。

しかし、大筋に沿った道の中でプレイヤーがどうどう話したか、どう戦ったか、また振ったサイコロの目という偶然が出て、それらが混ざったものが、一度きりの体験だとは思います。

毎回のセッションの内容に違いが出てきますね。そして、「同じストーリーをやったはずなのに、こいつをプレイヤーで入れたから今回はスリリングになった」など。

 

大きな一本道ではありますが、そこにはプレイヤーによって微妙な違いが必ず出ると思います。そこはTRPGでもコンピューターのRPGでも同じではありませんか?プレイングです。

 

「物語は読みものではなく、一度きりの体験」

→今まさに小説などの読みものにハマっているので、かなり違うと思いました。

僕の中で物語といえば小説とアニメです。

先ほどの引き返してレベル上げの体験のように、引き返して読めるものです。何度でも同じ内容で、何度でも同じセリフをやってくれます。しかし、それら全てが、一度きりの体験です。だって、成長しているんだから。いや、成長していなくても、傷心で読むのか、部屋の大掃除をしていて懐かしみながら読むのか、テスト前日に現実逃避に読むのかで全く違った体験になりますね。

 

ちなみに「物語」の意味とは「物語ること、その内容。話。古くから語り伝えられた話」だから、「冒険は読み物ではなく、一度きりの体験」なら分かります。どちらかというと、冒険と物語は対になるものですね。冒険が誰かによって語られたり描かれたりして残された時、物語になります。冒険が現場なら、物語はことが終わった後で人によってなされる語りですから、「物語は、読みものではなく一度きりの体験」だと、ちょっと意味が分からなくなるんですね。

アミューズメントステーションSEGAをやってるSEGAだからこそ書けるキャッチコピーですね。

 

・「そこには、興奮と自由があった。」

→うん。(そこ、っていうのはコンピューターが生まれる前の紙とペンのRPGね)

 

・「取り戻そう。真のロールプレイングゲームを。」「スマートフォンで。」

ここでは紙とペンのロールプレイングゲームみたいな興奮と自由を味わえるものを真のロールプレイングゲームとしているようですね。そして取り戻すとは、自分が持っていたものを一度無くし、再び手にすることです。

この書き手はその昔真のロールプレイングを手にしていたけども、他のメーカーが作るゲームが一本道ばかりだから今やRPGは一本道。(そのあいだ自分は何してたの?作れよ)

だから取り戻そう。真のRPGを。という事みたいですね。

真のロールプレイングゲームとは

(未知なる世界を進む冒険の旅+一本道ではない+引き返してやり直すことはできない+エンディングは決められていない+興奮と自由がある+読みものではなく一度きりの体験+取り戻すもの+物語を描く選択は全てプレイヤーに委ねられる+真のRPGを知る)

としているようですね。よほどテーブルトークRPGに精通しているんでしょうか?

浅いイメージを掴んできただけだと僕は思います。

 

ちなみにこのゲームが一人プレイ用のゲームで、選択が全てプレイヤーに委ねられているのだとしたら、かなりストーリーの未知さは狭くなると思いますね。TRPGの自由と興奮はその参加者どうしのやり取り、セッションによって生み出されるところが大きいからです。

スマートフォンゲームというGMとプレイヤー1:1という状況だと減りそうなものですがそれは大丈夫なんですかね…?

プレイヤーが複数のセッションだと意見交換や多数決で物事が決まったりします。自分が意思決定に関われなかったりするわけですよ。

でもこのゲームではプレイヤーはおそらく一人で、しかも重要キャラがどうなるかの重要な選択肢に全部関わらせてくれるというのです。

これは…ある種自分ではどうにもならない要素、セッションや関係の要素が少なくなりますね。他者がいることによって起こるあの爆発力がないわけです。

そしてCMのナレーションもまた、答えが決まっている語りでしかありません。

相手のセリフを受けて変化する会話、セッションではないわけです。

 

ロールプレイングゲームとは、なにか。」「それは、未知なる世界を進む冒険の旅。」

「しかし、今やストーリーは一本道。」

「未知のはずが、引き返してやり直せる旅路。」

「決められたエンディング。」「だが、本当にそれでいいのか?」

コンピューターゲームが生まれる前、最初のロールプレングゲームは紙とペンで出来ていた。」

「演じるのもストーリーも自分次第。」

「プレイヤーひとりひとりが世界線を自由に描けた」

「物語は読みものではなく、一度きりの体験」

「そこには、興奮と自由があった。」「取り戻そう。真のロールプレイングゲームを。」「スマートフォンで。」

「あなたはきっと、真のRPGを知る」

 

 

 

長々と書いたが、僕はこのPVのナレーションは他作品に対して持つRPG観、TRPGに対して持つTRPG観があまりにも的外れなように思った。明らかに真のRPGを求める層に対して失礼なキャッチコピーだからだ。

 

ではこの文章は何なのか?と少し考えた。マーケティングなど考えられていない、SEGAのクリエイターのポエムなのではないか?

 

・「今やストーリーは一本道」とは何か?どこから生まれた言葉なのか?

時勢?

特にあっていないと思う。情報化や国際化で選択肢は多くなった。むしろ選択肢に悩む時代だと思う。もしくは、一見選択肢が多く、自己表現も自由かのように感じてしまうけれども自分は実際はそうなっていない(選択肢は多くなく、発信することも特にない)というギャップに悩む時代。(今はこれが多いかもしれませんんね)

 

・コロナ禍?

「今やストーリーは一本道」か?特に合ってない。「冒険が求められていない。」とか「冒険の場が無い。」とかなら分かる。

 

・このキャッチフレーズを書いた人のことではないのか?

RPG(仕事)とはなにか。」

「それは、(かつて新入社員時代の自分にとっては)未知なる世界を進む冒険の旅。しかし、今や(高い地位にあり冒険的な企画とは無縁で)ストーリーは一本道」。

 

スマホゲームに限定してみて

「それ(スマホ向けゲーム開発事業)は、未知なる世界を進む冒険の旅。しかし、今やストーリーは一本道(課金してもらって稼ぐというプランしかない。そのシステムも固まってきた)。

 

スマホRPGに対しては分かりませんが、そちらにも前述のプレイングの体験は残っていると思いますので、外します。