シリーズ「ぼっち死の館」感想

最初ちらっと見たときは、色遣いが薄いし、線もふにゃふにゃで読みづらい、認識しづらいと思った。でもその描き方が、この先生の心の状態、というかこの主人公の老人の心境に合ってるのかなと思った。

なんと言うか、、、老いて目が悪くなったり知覚する感覚が弱まってくると、もしかしたらこういう画風で物事を見ているかもしれない、それを疑似的に絵柄にしているみたいな。例えば、高齢者体験として視界が歪む特殊なゴーグルを付けて老人の視界を疑似体験するやつがあるじゃないですか。そういう感じで、老人が主人公の漫画にはこういう画風が合うのかなって思いました。さすがにジャンプみたいな画風だとちぐはぐになるよね?そういう感じです。わからんけど。

とにかく絵柄とこの話が合ってると思いました。

 

亡くなったこの人の妻が「まだ俺の頭の中で生きていて時々何か言う」っていうの好き。好きというか、本当にそう思う出来事があったから。

「これは俺の中の記憶や考えがあいつの声で出てくるんだな。」ほんとそう。これ俺の思ってたことを文章にしてあるんですか?てくらい。

そしてこのモノローグを見て「どういう話」か分かって一気に面白くなった。

汚い換気扇を見て「くぇ!」っていうの、父も言ってたしリアルな感嘆詞だなと思う

 

自分がそうだから気づくんですけど、この主人公の人、全く他者と会話していないんですよね。だんだんと、世界と隔絶していってしまっている。

 

それはこの人の中で「こう生きたい」という価値観に従って最善を尽くして生きてると思うんですけど、それってだんだん苦しくなってくるというか、他者と関わらないと0か100みたいになってきてしまって、けっこうきついんですね。

これは僕はきつかったですという話ですね。

 

理由として、自分の設定した最善ていうのが、揺らがないからではないかと思いますね。

それはとても良い側面があるんですけれど、他者と関わって話すと、そういうものが壊れたりする可能性もある反面、その価値を認めてもらえたり、自分が意固地になってしまってることが大したことないんだなと思えて楽になったり、新しい考え方が入ってきて「今のままでいいんだ」て思えたりするんですね。

そういう事で、一気に楽になったりするんですよ。

やっぱ相対的なものなので。

逆に一人で考え続ける環境でいる事で固まっていって突き進めるというのもあるんですけれどもね。そういう状況にいる人は、そういう良い側面を使っていってください。(何目線?)

バス停で待っていた時の(なんだ!ちゃんと、後につこうとしてるだろうが!)て思っちゃうの、本当にそうなんだよね。最善をしているんだけれども、他者と関わるときは厳しめみたいな。だってそれは自分が考えている最善で、他者はそれを知らないから(知りようがないから。)

逆に、他者とこまごまと関わることを知っているおばさんたちは、ガンガン話しかけてくることが出来る。0か100じゃなくて、他者と話していると会話の流れの中で100点を出し続ける事なんてできっこなくて、40点とか70点の言葉とかがバンバン出てくる。(たまに120点が出てきたりするのが面白い。)

 

律気(りちぎ)は、「義理堅い事、実直な事」。(ググると律儀ばかり出てきた。これも狙いなのだろうか?)

 

だからこの「ずい分律気な方ですねぇ。」というのも、100真剣に言った言葉ではなくて、この主人公の「バカも文脈によって意味が変わるだろ」という台詞も併せ考えると、

 

ずい分、

「応用がききませんねえ」

 

とか、そういうニュアンスのほうが近い。

みんなホホ、とかアハハとかにこやかにしていて、なんとなく「輪にどうやって入ったらいいのか分からない男の子」を見る女の子たちみたいだ。 もしかしたら冷笑している人や、いじわるな笑みを浮かべている人もいるかもしれない。(可能性としては。)

 

でも違う。主人公には「ずい分律気な方ですねぇ。」は、「通じた!!!」と思ってしまう。それは、これまでの経験からだ。

これまでの経験(割り込みを注意されて嫌だった思い出、価値観が通じない)がマイナスの気持ちを生むこともある。

律気という価値観それは彼にとって価値のある言葉。こうありたいというもの。妻そのものに近い言葉。それは、かなり通じてほしいはずだ。無意識に作品のタイトルにして、一本の長編を書きあげてしまうくらいには。

だから、編集に通じないと言われてへこんでたところに、おばさん方から言われた言葉を褒め言葉に捉えてしまったんですね。通じた。

そしてそれは、亡くなった妻だったらそういうであろうという事から「自分の頭で」たどり着いたものなんですね。

妻は他者で、その妻の残してくれたもののおかげで、他者と関わるという事にたどり着けたんですね。

ここで初めて他者に気持ちを伝えられます。電車で並んでると思うんですけどと注意されても「すみません」が出なかった人が、ここで「ありがとう。」て言えるようになっているんですね。

本人には自覚がないでしょうが、もうすでに、バスの中で「ご近所の人とも仲良くしていきたいな」という気持ちに変化してきていると思うんですよね。

その時点で、もうすでに「心配はされないだろう」と思いはじめている。

だから妻のセリフが語尾で途中で消えたんですね。

「私は上から目線をやめてご近所とも仲良くし  たいと思っている。」

 

それから、明るくなって若返ってすら見える主人公は、少しぎこちないながらもご近所さんに話しかけられるようになっています。

少なくとも会話を拒否されるのではないかとかの段階は克服できたわけです。これ嬉しいね。読んでる僕は嬉しいよ。他者と関わるときにあんなに口をとがらせていたこの人が、こんなになるなんて。

そして上から目線や「どうせ通じない」という偏見を持たなくなって済んだので、会話の中から楽しいワードを見つける事すらも出来るようになっています!これは進歩です!

主人公が歩いて行ったあと、ご近所さんたちはどうしたDJJ!なんて言って、おばさん達には少し困惑が広がっています。

もう少し深く事情を話す事が出来たら、こういう小さな困惑は、今後減っていくかもしれませんね。

てか、この主人公のおじいさんがこれから将来うまくやっていけるかどうか、まで心配しちゃってますね。このおじいさんには悲しい事や楽しい事が起こるでしょうけれども、必ず幸せになってほしいって思っちゃうくらいには、この話が好きになっていますね。書く事で想像しますからね。

 

妻にちゃんという事が出来ればよかった、からの、一期一会というか、合う人とのコミュニケーションに良い言葉を使っていけたらいいですね。まあこれは僕に言っていますね。自分で再認識しました。他者とどう関わっていきたいのかという。

僕ももっと、「ありがとう」とか「すみません」とか、ほかもっとこまごまと言葉を使ってコミュニケーションしていきたいと思っています。

 

そう思うようになったきっかけは「やがて君になる」ですね。そこから来ています。