一人称がコロコロ変わるって話

僕は話している内容や書いている内容によって一人称が変わります。

さいころ、自分の事を「ぼく」と言っていました。そこから「俺」になり、大学のころ「自分」になりました。

過去の事を話すときや、自分の中の弱い部分、柔らかい部分の事を話す時に僕になりやすいです。

ちょっと脚色したい時とか強い言葉にしたい時に俺になります。書きたい事があって、これは一人称「俺」じゃないと決まらない文だなと思った時とか。「典型的なオタクの部屋…?俺の部屋と同じジャンッッッ!!」「おれ…やってやるよ!!!」でも強い感じがするのであまり使いたい感じではありません。

大体の時は「自分」です。客観視している感じ。「(あくまでも)自分は〜」「自分の一人称はコロコロ変わります。」

だから、ラオウの一人称がコロコロ変わるコマがありますけども、自分にとっては全然変じゃない訳です。整合性なんてどうでも良いんだよ!!俺が使いたいんだからいいだろがッッッ!!!昔からぼく、こういう感じだっけ…?

多分、漫画アニメゲームで言葉を覚えて、それで『整合性なんてどうでもいいんだよッッッて言うキャラのセリフの引用』を、そのまま文章に使っているみたいな感じです。だから、本当の意味でぼくの言葉ではない感じです。

一人称の話は、これで終わり。

 

本当の意味で僕の言葉ではない。

この言葉が出てきたのは、新しい漫画に出会ったのがきっかけです。「やがて君になる」っていう漫画です。

ダブル主人公、どちらかというとヒロインの少女・七海燈子は、完璧な人物です。進学校の二年生で生徒会長。成績1番。顔よし。スタイルよし。友達たくさん。運動神経抜群。告白された回数、10回以上。

しかしそれらは全てが演技だという事が分かります。全て、歳の離れた姉が言うであろう台詞を言っている。姉がするであろう行動をしている。姉のようにみんなに好かれる態度を取る。書く文字すらも姉の筆跡を真似をしたものです。(そうだっけ?明確に言われてたっけ?)全てが演技。自分の本心とは違う。

 

で、自分がどう繋がるかというと、自分は漫画映画アニメゲームで育ってきたので、そのほとんどの言葉がフィクションを元にしています。

そして、何か困った事や新しい事にぶつかった時に、それらの言葉や考え方や技術の知識を使います。

ここまでならいい感じですね。本を実際に役に立てている。

でもそうではなくて、最近はこう言うようになっていました。「つまりセックスis格闘…!これ餓狼伝でも言ってたな」「これ…ホーリーランドじゃん…」

そして僕の感想はつまらないものになりました。多分理由は二つあって、一つ目は全て一言で片付けられてしまってつまらない事。伝わらない事。もう一つは、自分で責任を持って言い切っていない事です。

 

空を飛ぶ個人用の機械を全て「タケコプターじゃん」と表現する人がいたら、それは分かるギャグとしてなら面白いでしょうが、その新しい空飛ぶ機械を愛している人には面白くありません。タケコプターを知らない人にとっては面白さそのものが伝わりませんね。

もう一つは、「これ○○(大作漫画)でも言ってたわ」という元を示す事で、暗にその作者の先生やその作品の素晴らしさを盾にとって、根拠の強さとしているかもしれないという事です。○○でも言ってたから、そうだろ。分かるだろ。作品は微妙に違うのに、○=◻︎とする粗さには突っ込むなよ。なんたって、○○は超名作なんだから。そういう卑怯さです。

本当は、“なぜその名作の言葉が正しいのか”  “今回の場合、どの点で結びつくのか”  そして、“このように(あくまでも俺は)思います。”

そう言えてこそ、初めて感想になるのではないでしょうか?そして、そうしたら、例え人の漫画の言葉を使ったとしても、「自分はこれこれこうで、ここの言葉の意味をこう捉えた」となり、正しいかは別として、その漫画を正しく捉えたかは別として、

「このシーンの意味をこのように捉えた自分」を文字に出来る、つまり「自己を表現」するのではないかと思います。あくまで自己表現であり、正しいかどうかは別として。(うまく言えませんね。)

メディアなしに言葉を覚えた人はいません。『本当の自分の言葉』をリアル体験だけに限定するなら、ロックスターの言葉は?名言集は?それらに感銘を受けた偉人は?またその偉人の言葉に感銘を受けて育った人は?この子は?……

 

自己表現とは簡単で、『自分が何を感じたか』なのですが、その根拠は『自分』にしておかないとな、と思いました。自分の責任で使うという事です。突っ込まれたら、○○さんが言ってたから、じゃなくて。誰かを盾にすりゃ怖くないんですよね。

 

そういう事を考えました。